獅子、盂蘭盆会に舞う
■10時から踊りが始まるという事で、9時半に着けばいいかなー…と思って行ったら既に御挨拶が始まっておりました(^_^;)
■できれば獅子舞の踊りの意味とか前もって訊きたかったのですが、このまま始まってしまいそうでしたので、写真を撮るべく大人しく裏手に回りました。
■それぞれの定位置に着くと【宮参り】【津島】【早岡崎】を舞います。
【宮参り】は本殿をぐるりと一回りしてからこの地に来た事を告げる舞です。
■次に踊られる【津島】【早岡崎】は悪霊や疫病を追い出す踊りです。
角には「雨下無双角兵衛」(あめがしたむそうかくべい)と刻まれています。
■舞が終わると最後に太夫獅子の後ろに御幣を持った太夫が立ち、村を回る前に呪法を唱え【九字切り】をして社内の式は終わります。
■神社から出た獅子達は「村回り」をするべく下間久里の村を練り踊るのですが、家の中で踊る舞は神社で舞ったものとは違って、子孫繁栄などの「地固めの舞」を披露するのだそうです。下間久里の獅子舞の曲目は全部で16曲も保存されていて、目的別で演目も変わるようです。途中「ヤド」と呼ばれる家で休憩をはさんで夜まで続けられます。
熱中症が心配ですね…(^_^;)
お堂に安置されている古い獅子頭
下間久里の獅子舞の歴史についてちょこっと…
■お祭りが終わって後から少しお話を訊けたのですが、この獅子舞は文禄三年(1594年)旅の一行が道中に下間久里に立ち寄りこれを伝えた事に始まるのだそうです。
文禄…と言いますと、秀吉が朝鮮出兵を掛けた年代です。
国内の戦が一通り落ち着き、徳川家康が江戸に入場してから4年経った頃です。
■下間久里の香取神社の建てられた年代は定かではありませんが、埼玉県東部の古利根川東岸は香取神社(天津神系)が集中していて、越谷は古く元荒川を境に久伊豆神社(祭神:大己貴命(オオナムチノミコト・スサノオノミコトの子)・出雲系)の分布と別れていたという事です。
今の地図上では久伊豆と香取で入り組んでいますが、当時と現在では川の流れが違っているので、この辺りは関東開拓に起因するのかもしれません。
という事で、由来的には元々この地に香取様(か、出雲系以外)がお祭りされていたであろうと推測しています。(因みに氷川神社は出雲系で、元荒川西部・多摩川流域に多く、埼玉県南部・東京地域はこれに当たる)
「享保五年 松崎平左衛門は葛飾郡香取神社(庄和町)の獅子舞を伝授す」という記録も
残っているので、松崎家は村の名士としてだけではなく、獅子舞の継承に大きく関わっていたのではないかと思われます。
もっと詳しく知りたいのですが、残念ながら他所様の系図でプライベートな事なので、さすがに突撃するわけにもいきません……(^_^;)
しかしそのお役目は現代も変わらぬようで、保存と伝承に貢献していらっしゃるようです。
■そして最後に獅子舞と共に居た最大の謎(笑)【花笠】について判った事を少し。
■最終的に花笠に憑いた魂は田んぼへ連れて行き、用水路の水を伝わらせて海へ送るそうで、海の水平線から天が近いのでそこから成仏させるのだといいます。
獅子が悪鬼や疫病を追い出し、花笠がその他の霊魂を拾い上げ成仏させる。いいコンビネーションですよね(笑)
あと、花笠の御幣は5本ありますが、何故4色しかないのか?(陰陽五行の木火土水金は 木=東=青龍=青・火=南=朱雀=赤・土=中央(天位)=黄・金=西=白虎=白・水=北=玄武=黒・紫)中央と前方の色は「赤」で変化しないのに、何故その他の御幣は毎年変わった位置にあるのか?とかは分かりませんでした…。
まったく勉強不足です…(-_-;)
■下間久里の獅子舞は派手さはありませんでしたが、淡々と、信仰と共に今も生活に息づいていました。
まだまだ知らない歴史が御近所中溢れているのだなあ…という事も改めて知りましたし、新たな情報や知識を収集できてとてもいい機会だったと思いました。
今年は今年の、来年には来年の何か面白い事が見つかるかもしれないので、今後も継続して下間久里の探索をしてみたいと思います(#^.^#)
最近仏像づいているので(笑)御神仏とか出会えたらいいな~~!